学生コラム

個性を伸ばすということはどういうことか?~学校と家庭の在り方~

志賀直哉の『清兵衛と瓢箪』という話をご存じだろうか?

清兵衛は12歳。彼は現在、夢中になっているものがある。それは瓢箪である。暇さえあれば瓢箪を買いに行き、それを磨いては、眺めていた。彼の父はそのことを快く思っていなかった。

ある日、父は品評会に出ていた馬琴の瓢箪を褒め称えた。清兵衛はその瓢箪はおもしろくないと言い、父を怒らせてしまう。

後日、清兵衛は店で、見事な瓢箪を発見し10銭で(200円)購入した。それはふつうの瓢箪に見えたが、清兵衛はそれからその瓢箪に夢中になる。学校へも持っていくようになり、授業中にまで磨き続け、とうとう教師に見つかってしまう。

教師は瓢箪を取りあげ、清兵衛の家に行って説教する。「到底将来見込みのある人間ではない」とまで言った。この話を聞いた父は激怒し、瓢箪を一つ残らず割ってしまった。

一方、清兵衛が心奪われた瓢箪は教員から小使いの手に、そして骨董屋の手に渡る。骨董屋はその瓢箪を豪家に600円(120万円)で売っていた。

この話は、大人と子どもの対立、さらに周囲の無理解な大人が自分の価値観で物事を図り、子どもの才能・個性をつぶしているというところに焦点があてられている。

この話を読んだとき、子どもの教育に学校と家庭はどうあるべきか考えさせられた。学校で子どもを教え育てるのは教師の役割である。子どもの基礎学力の習得はもちろんだが、学校・教師に求められているのはそれだけではないはずだ。

大人の価値観が子どもの個性をつぶすことがあってはならないし、その価値観を押しつけてはいけない。とすれば、より良い環境下で子どもの個性を重視した、自ら学び自ら考える教育が望ましいとされる。

親子間でもさらにコミュニケーションの機会を増やし、子どもの可能性を知ることが重要となる。そしてこれをめざしたのがいわゆるゆとり教育となる。是非は問わない。しかし、現在ゆとり教育の見直しがされているが、それはすべて見直されるべきものなのだろうか。

その後の清兵衛は、絵を描くことに熱中し始めたが父は、絵にも小言を言い出すのだったというところで話は終わる。清兵衛の将来に不穏なものを感じるが、一方で子どもの個性というものは抑えつけられても、また別のところで勝手に伸びていくとも感じられた。ということは、“個性を伸ばす”ということ自体、大人の絵空事に過ぎないのだろうか。

今いちど、子供の教育というものを考えさせられた話だった。

****コメント
こどもの個性を生かす、簡単なようで難しい。どうしても親は心配でついつい口を出してしまう。

学生とも話したが、何もしない、言わない、教えないではいけない。 学生は「自分のやりたいこと」をさせてくれたという人、小さい頃に色々な習い事に行かせてもらった、いやいやながら行かされたという人もいた。

育て方は違っても、みんなしっかりとした大人になっている。そして、育ててもらった親に感謝しているという言葉も聞けた。

子育ては、いずれにしても子どもに正面から向き合って、考える親であることが大切だろう。

「個性を伸ばす」とはまた別物かもしれないが、筆者も書いているように、子どもは勝手に伸びていくと考えた方が良いのかもしれない。